top of page
由緒

照恩寺について

五七桐.jpg

福井県福井市郊外に位置する東郷の中心部に、ひっそりと伽藍を構える寺院です。

山門は無く、寺号(寺の名称)を示す石碑が立っているだけなので、前の道を通っても入り口が分かりづらい寺です。

本堂の西側には駐車場があり、道を挟んで「トックリ軒」という美味しい食堂があります。この駐車場はトックリ軒の駐車場だと勘違いしている地元民も少なくありません。(トックリ軒のお客さんにも、制限なく自由にご利用いただいています。)

照恩寺だと気づいていただけるように、正面と駐車場に小さい看板(上の写真)を設置しました。(^ ^;

 

伝統を伝えるための取り組みとして、クノ法要や寺カフェ「Show-On G 茶坊」などを通して、仏教に出会う新たなキッカケになれることを願っています。

照恩寺の歴史

由緒

一向一揆の騒乱のために吉崎の地から京に逃れた浄土真宗本願寺派第8代門主蓮如上人に対し、越前の国主朝倉敏景は一乗谷に御坊を建立する条件で越前下向を願い出たが、上人は周囲の状況を考慮して聞き入れなかった。
しかし、上人は文明8年(1476年)自分の近親者を坊主にするために浄土真宗本願寺派第5代門主綽如上人の三男である周覚玄真法師の孫にあたる蓮實(永存の子)を御坊職に任じられた。
敏景から朝倉氏は代々その下護に務め、朝倉氏滅亡までの5代100年間に亘り、御坊職は蓮實・真桂・祐誓の3代が連続して保たれた。
その後、戦国時代の変遷を経て、長谷川秀一公が東郷城主を命じられるにおよんで、寺基をその城下に移して“吉崎引移しの御坊”と称した。その御坊地が現在の福井市栃泉町62字折橋1番地の地籍で、今でも御坊田と呼ばれている。
近代まで標柱でその位置を伝え、その耕土の約50cmの地中には敷石や井戸跡と考えられる礎石が一面に敷かれていたと云う。
そして、現在地へ御堂を移築したのは、その13年余り後のことと云われている。
天正13年(1590年)に北の庄の城主となった堀秀政は殊のほか真宗に帰依厚く、北の庄の柳町に地籍に御坊地を寄進し、それを受けた浄土真宗本願寺派第11代門主顕如上人は性玄寺善珍を御坊地監守に任じた。
堀秀政が1590年病没し後、長男堀秀治は父の志を継ぎ柳町御坊地に堂宇を建立して柳町御坊となし、福井別院となった。
このことから御坊の御堂が2ヶ所に出来る結果となり東郷御坊は寺号の無い別院となった。
そこで浄土真宗本願寺派第12代門主准如上人は別院となった東郷御坊に対し「照恩寺」の寺号を下賜して、“院家”の格式を仰せつかった。
すなわち照恩寺が吉崎御坊の後身で福井別院の前身であると云われる所以である。

年表

年表

文明8年(1476年)

吉崎御坊焼失後、朝倉敏景公は蓮如上人の近親にあたる蓮實を坊職に迎え、一乗城下新町に御坊を建立

天正12年(1584年)

長谷川秀一公の命を受け、東郷城下に移転

慶長2年(1597年)

現在の地籍に移転

明和3年(1776年)

9代法秀の時代に焼失

明和7年(1770年)

再建

安政2年(1855年)

焼失

安政5年(1858年)

再建(現在の本堂)

昭和19年(1944年)

国家総動員法によって梵鐘などを供出

昭和21年(1946年)

梵鐘を鋳造。

昭和23年(1948年)

福井大震災で鐘楼堂倒壊、本堂・庫裡に被害

昭和29年(1954年)

鐘楼堂再建

昭和59年(1984年)

本堂大修復

平成19年(2007年)

庫裡改修工事

平成28年(2016年)5月3日

テクノ法要初勤修令和4年(2022年)

令和4年(2022年)8月11日

寺カフェ「Show-on G茶坊」オープン

歴代住職

歴代住職

初代 蓮實

本願寺派第5代綽如上人の曽孫

​石田西光寺 永存の長男

母は蓮如上人の妹 如祐尼

2代 真桂
3代 祐誓
4代 超空

照恩寺の寺号が下賜される

5代 超善
6代 寂空
7代 寂映
8代 寂秀
9代 法秀
10代 本秀
11代 廣音
12代 廣詮

13代 朝倉 廣宣

鯖江市下野田 善照寺より入寺

坊守(丸岡町 浄應寺より)

14代 朝倉 明宣

海外開教に備えた宗教視察のためインド・豪州に派遣

後に大谷探検隊に随行

著書「清国巡遊誌

親鸞聖人650回大遠忌法要に尽力

坊守 (福井市 平乗寺より

15代 朝倉 正宣

坊守  光子(越前市 養徳寺より[養徳寺ホームページ])

16代 朝倉 成宣

坊守 如枝(島根県浜田市 浄蓮寺より

17代 朝倉 行宣

テクノ法要を発案・勤修

坊守 和代(福井市 前原家より)

​和代が「寺カフェShow-on G 茶坊」を開店

bottom of page